関ヶ原の戦い Battle of Sekigahara

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  豊臣秀吉は無類の女好きで常時20人ほどの側室を抱えていた
    しかし正室や側室との間に出来た子供の数は少なく、北の政所(寧々)との間には子供がなく、南殿と淀殿(茶々)との間にだけ男三人、女一人の計四人の子供が出来ただけであった
   このため秀吉は種なし西瓜とも形容され、淀殿との間の子供の父親は大野治長(おおのはるなが)とも石田三成とも言われている 

    さて1591年秀吉は嫡男の鶴松が死去すると、甥の秀次を養子にして関白に就任させた
    しかし秀頼が1593年に生まれると、次第に秀次は秀吉から疎まれるようになった。そして1595年邪魔になった秀次は謀反の疑いをかけられ、秀次と彼の側近などに切腹の沙汰が出た
    彼の首は三条河原に晒された上に、彼の家族や側室もその場所で処刑されたのだった。また秀次の家臣の多くが改易の目にあった
    秀吉はこの事件によってもたらされた政治的な危機を克服するために、また秀頼に忠誠を尽くす旨の血判起請文を諸大名に提出させたのだった

    1599年、秀吉は明・朝鮮での大規模な軍事行動を予定していたが、前年春の京の醍醐寺で催された花見のあと病に伏せるようになった
    病は重篤で秀吉は死を覚悟したため、秀頼が成人するまで徳川家康・前田利家らの五大老、浅野長政・石田三成らの五奉行の合議制をとることを遺命とした。これは徳川家康の専横を防ぐためで、前田利家が牽制役として重要な地位にあった

   1598年9月秀吉が、それを追うように前田利家が翌年の4月に亡くなり、関ヶ原の戦い、すなわち豊臣家滅亡へと歴史は動いたのである 


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