関ヶ原の戦い Battle of Sekigahara

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 関ヶ原の戦いを知るには、豊臣秀吉について語らなければならない
   秀吉は1537年尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)の農民の子供として生まれた。最初は木下藤吉郎を、出世してからは羽柴秀吉そして豊臣秀吉と名乗った

 1554年織田信長の足軽として仕えたが、もって生まれた才気と行動力で頭角を表すようになり、重要な職に就くようになったのである
    織田軍との戦いに敗れて浅井氏は滅亡、信長は浅井氏の旧領の北近江を秀吉に与えた。この地で彼は石田三成などの優秀な青年を多く登用したのだった

   1576年信長は秀吉に当時毛利氏の影響下であった中国平定を命じた。1582年、秀吉の高松城攻戦時に、明智光秀の謀反によって信長が本能寺で自害した旨の報告を耳にした(本能寺の変)
  それは秀吉にとって、天下取りのチャンスと自覚し、また信長の敵討という大義名分の下、速やかに毛利氏と和睦して、大軍と共に京へ引き返したのだった(中国大返し) 
  この電光石火の秀吉の行軍に光秀は驚愕、京の山崎で戦ったが光秀は敗れ、逃走半ばで農民の武者狩りより、命をお落とした(山崎の戦い)

  そして兼ねてから折り合いが悪かった織田家の筆頭家老の柴田勝家に賤ヶ岳(琵琶湖と余呉湖の間)で戦いを挑んだのである(賤ヶ岳の戦い)
    この戦いでは子飼いの福島正則、加藤清正、加藤嘉昭、脇坂安治などの活躍によって勝利し、その後中国、九州を平定し、1590年小田原の北条氏を滅ぼし、天下統一をなした
    天下統一後の秀吉は商工業を奨励するために楽市楽座を推進、農業政策として太閤検地を、また刀狩を行って兵農分離を推し進めた
 
   秀吉の野望は日本を統一するだけでなく、朝鮮と明を属国にまたヨーロッパまで支配しようと考えていた
   1592年明を属国にしようと宇喜多秀家を総大将として160,000人の軍勢を朝鮮へ出兵(文禄の役)、1597年小早川秀秋を総大将として140,000人の軍勢を再度朝鮮へ出兵した(慶長の役)。しかしこの野望は秀吉自らの死によって終わったのであった  

豊臣秀吉像(京都・高台寺)                                                  NEXT

 

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