関ヶ原の戦い Battle of Sekigahara

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  三成は後方の憂いでもある家康派の細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)の丹後田辺城、目の上のタンコブでもある徳川家康の側近の鳥居元忠が守る伏見城を攻撃することを決めた

 7月19日小野木重次・前田茂勝らが率いる総勢15,000の西軍が、500の守備兵が守る丹後田辺城を攻めた。幽斎は西軍の歌道の師であるため攻め難く、落城させたのは9月13日で15,000の軍団は関ヶ原の戦いには間に合わなかった(田辺城の戦い)
  7月19日小早川秀秋、島津義弘など率いる総勢40,000の西軍が、伏見城の1,800の守備兵を攻めたが、この城は秀吉が当時の建築技術の粋を尽くして難攻不落としたもので、半月かけてやっと8月1日に伏見城が落城したのだった(伏見城の戦い) 

  8月上旬西軍は三軍団に分かれ、まず一つは大谷吉継、平塚為広らの軍勢20,000は北陸を制圧するために北陸道を東進、二つ目は毛利秀元、宇喜多秀家、吉川広家、安国寺恵瓊らの軍勢40,000は伊勢路を経て東海道を東進、そして石田三成、小西行長、島津維新らの軍勢30,000は中山道を東進し、おのおの西濃(尾張・美濃のこと)に向けて進撃を始めた
 
 

毛利秀元(狩野探幽作) 下関市立長府美術館      

   北陸道を東進した大谷軍団は前田利長に阻まれたために北陸から美濃へ転進することになった。その途中の9月7日突如京極高次(きょうごくたかつぐ)が東軍へ寝返り3,000の兵を従えて大津城に籠城した

    西軍は毛利元康(もうりもとやす)、立花宗茂(たちばなむねしげ)らの15,000 の軍勢で大津城を攻めたが、関ヶ原合戦の当日の9月15日まで落城しなかった
    立花宗茂は家康が恐れる猛将で15,000の軍団を従えて西軍として関ヶ原に参戦していれば、 西軍が勝利していたとも言われている(大津城の戦い)  


    伊勢路を経て東海道を東進する毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らは伊勢の東軍に加担していた大名を叩いて尾張へ出る予定だった
    伊勢には家康の会津征伐に同行していた伊勢の
安濃津城主の富田信高伊勢上野主の分部光嘉(わけべみつよし)らが小山評定後、急遽海路を利用して帰国、1,700名の手勢で安濃津城に籠城した。どうしても平定したい西軍は8月23日毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂ら30,000の軍団で攻め、8月27日に落城した(この戦いの後鍋島勝茂が東軍に寝返る)

    三成は8月9日に佐和山城を出陣して10日に大垣城へ入城、15日には伊勢にいた宇喜多秀家、毛利秀元、長束正家に美濃の大垣に参集するように使いを出した 
  三成は大垣城を出て東軍に備えて沢渡村に陣を設けた。しかし黒田長政、藤堂高虎(とうどうたかとら)らの東軍に三成の前衛隊が簡単に破れたために 大垣城へ撤退した
  東軍は三成を追撃せず、8月24日大垣城の近くの赤坂に先発隊の全軍が集結、家康の着陣を待った
   8月26日三成は佐和山城に一度戻るが、この行動は秀頼を佐和山城へ招聘すれば東軍恩顧の武将に動揺させることが出来ると考え、警備状態の確認を計るためとも言われている 

立花宗茂 御花資料館                  NEXT

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